大江山散策コース03
 ~大淵・西野・江口・三百地区(その1)~

大江山地区総合マップ

⑦厳島神社から⑧新潟市立大淵小学校方面に行く場合、同じ道を帰るのではなく裏道を歩くと、本興寺の裏庭を見ることができ楽しいです。

① 大江山農村環境改善センター

大江山農村環境改善センター

大江山農村環境改善センター

佐野藤三郎の揮毫した石碑

佐野藤三郎の揮毫した石碑

農村の生活環境と農業及び地域の健全な発展を図るために造られた施設で、複合施設として使われています。
大江山連絡所・公民館・図書館・土地改良区等が併設されています。
この施設の前には、佐野藤三郎の揮毫した石碑が建っています。

②大淵の菅原神社

大淵の菅原神社

大淵の菅原神社

市の保存樹 大けやき

市の保存樹 大けやき

大江山地区では最も古いとされる神社で、文安5年(1448)に創立されたといわれており、かつて上大淵にあった諏訪神社を大正期に合祀し、昭和13年に総檜造りで再建され現在に至っています。
回廊をもつ神社で、祭神は「菅原道真・天照大神」です。
境内には市の保存樹の大けやきが2本立っています。

③ 本興寺(曹洞宗)

本興寺(曹洞宗)

本興寺(曹洞宗)

大淵地区にある曹洞宗の寺で、歴史は古く、1469年に小庵を建てたのが始まりと言われています。
本堂と禅堂を結ぶ回廊をもっており、本尊は「釈迦牟尼如来」です。
天保10年(1839)に火災にあいましたが、その後すぐ再建し、本堂・庫裏・山門を再築、慶応3年(1867)に禅堂を再建し、現在に至っています。
敷地内には保育園も有しています。

本興寺のホームページ

④ 本傳寺(日蓮宗)

本傳寺(日蓮宗)

本傳寺(日蓮宗)

大淵地区にある日蓮宗の寺で、室町時代に開設されたといわています。本尊は「釈迦牟尼仏」です。
寛政5年(1793)の火災で仏像や書類を焼失してしまいましたが、寛政12年(1800)に本堂を再建し現在に至っています。

⑤ 若宮神社(若宮社)

若宮神社(若宮社)

若宮神社(若宮社)

「天壌無窮」の石碑

「天壌無窮」の石碑

祭神は「応神天皇・天宇受女命(あまのうずめのみこと)」で、もと大淵村名主の桑野家の屋敷神で、愛染明王も合祀していましたが、愛染明王に代えて天宇受女命(あまのうずめのみこと)を合祀したといいます。
神社には、次のような伝承話があります。

「大淵の守り神社「若宮神社」は、桑野家の氏神様で、桑野家一族の8軒の女性たちがお守りしていた。
昔から戦争に行く時、「若宮神社」の土を持って行くと戦死しないと言われ、この土を持っていったためこの集落には戦死者がいなかったといわれている。」

神社の境内には「天壌無窮」の石碑があります。

⑥ 地蔵堂

地蔵堂

地蔵堂

この地蔵堂の後ろに江戸後期創建の薬師堂がありましたが、今は、この薬師堂は同地区にある本興寺の敷地内に移されています。
堂の中のお地蔵さまが、時の流れの移り変わりを物語っておられるようです。

⑦ 厳島神社

厳島神社

厳島神社

厳島神社の案内石塔

厳島神社の案内石塔

祭神は市杵嶋姫命(いつきしまひめのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)を合祀している神社です。
創立年代は不詳で、安政6年(1859年)9月に再建しています。
昔は湯田の畦にあり、弁天様と呼んでいたといいます。
明治初期に、下大淵の諏訪社がここに合祀されたとも言い伝えられています。
神社への案内石塔は建部遯吾の揮毫によるものです。

⑧ 新潟市立大淵小学校

新潟市立大淵小学校

新潟市立大淵小学校

明治6年本興寺禅堂を借りて小杉村小学校の分校として仮開校し、明治10年本校大淵小学校として開学しました。
昭和32年に新潟市と合併し、新潟市立大淵小学校と改称しました。
その後、現在地に校舎を新築し、平成20年に新校舎竣工記念式典を行いました。

⑨ 金照寺(真宗本願寺派)

金照寺(真宗本願寺派)

金照寺(真宗本願寺派)

気根をもつ珍しいイチョウの木

気根をもつ珍しいイチョウの木

真宗本願寺派の寺で、本尊は「阿弥陀仏」です。
文禄2年(1593年)に京都方面から布教僧「玄照」が当地に草庵を結び開山したといいます。
現本堂は弘化3年(1846年)江戸末期に建立されたものです。
昭和15年本堂修復の際、「弘化三丙午年造営」の文字が発見されています。
境内には、気根をもつ珍しいイチョウの木があります。

⑩ 東陽寺(曹洞宗)

東陽寺(曹洞宗)

東陽寺(曹洞宗)

阿賀野川の土手からの眺め

阿賀野川の土手からの眺め

曹洞宗の寺で、本尊は「釈迦牟尼仏」です。
150年間高森山(豊栄)にありましたが、水害を避けて現地に移り、慶長3年(1598年)に吉祥寺の末寺となり、天保年間(1644~48年)に寺号を東陽寺に改めました。
江戸と明治時代の2回、火災にあい再建しています。
境内には本堂・庫裏・開山堂のほか観音堂・地蔵堂があり、観音石仏の霊場ともなっています。
正面の阿賀野川の土手を上っていくと、遠く飯豊連峰や五頭連峰の山並みを望むことができます。

⑪ 伝生院塚

伝生院塚

伝生院塚

伝生院塚

伝生院塚

古峰神社・湯殿山・庚申塔・供養塔ともう二つの石塔がたっており、合わせて伝生院塚と呼ばれています。

この伝生院塚には次のような伝承話が伝わっています。

「天明の飢饉の時(江戸四大飢饉の一つ)新発田藩に救いを求めて、松崎や西蒲原から百姓たちが大勢やって来たましが、ここまで来て橋を渡りきれずに飢えと疲労で死んでいきました。
伝生院という修験者が、この死体を埋めて供養したと言われています。この伝生院塚の周囲は明治の初めころは老木がうっそうとしていて、昼でも薄暗い所だったといいます。
作物を作るのに害があるので切ろうとしましたが、たたりを恐れてしばらくは引き受け手がなかったということです。」

小高くなったこの地に立つと、悠久の時を感じるとともに、先人の思いを偲ぶことができます。