大江山って昔からあるの?

大江山地区がある江南区は、「亀田郷」と言われ、かつては別名「芦沼」「地図にない湖」と言われていました。
亀田郷の歴史は、水との闘いでした。
大正2年に木津切れ、大正6年に曽川切れなど、亀田郷一帯が水没する大水害がありました。
5年に一度は水害があるといわれている常襲地帯でした。
「芦沼」「地図にない湖」といわれて亀田郷での農作業がいかに過酷であったか、各資料や写真・映像からもうかがい知ることができます。
大江山も例外ではなく、田植えの季節には、田植えの前の代かき仕事をしましたが、足踏み水車を使っての水くみは大変な重労働だったといわれています。
朝の3時、4時に起き、田舟に苗を積んで出かけ、腰までつかったり田下駄をはいたりの田植え作業は、大変な作業でした。
結(ゆい)や助(すけ)などの労力の交換や助け合いも盛んに行われていました。
舟の往来がスムーズになるように、街道沿いには堀が巡らされ、1週間から10日ほど乾かし、舟で家に運びました。
「腰まで水につかって仕事をした」とされる農民たちですが、それでも鳥屋野潟周辺よりは高知だった大江山地区は、他の地域から羨ましがられたとの記述もあります。
昭和20年終戦を迎え、農地改革が行われました。昭和23年、東洋一といわれた栗ノ木排水機場が完成し、乾田化が一気に進み、今日の美田へと変わっていきました。
乾田化に尽力した亀田郷土地改良区の業績を大江山各地域の記念碑などでみることができます。
大江山一帯見渡す限りの美田が広がっていますが、先人の苦労に思いをはせ、素晴らしい田園風景に目を向けたいものです。
大江山地区は、亀田郷の中で最も歴史の古い地域です。
特に大江山公園のある蔵岡・笹山から横越・亀田の袋津へと連なる山通りと呼ばれる砂丘には、縄文時代以降の遺跡が多く点在しています。
また、松山・直り山から茗荷谷(みょうがだに)、丸山・北山へと続く砂丘や大淵・西野など阿賀野川の旧堤防上にも奈良・平安時代の遺跡が多く見られます。
このことから、大江山地区で古くから人々が生活してきたことがわかります。
大江山地区で最も古い開村の伝承をもつのは大淵で、室町中期(1441~1449年)頃に開村したと伝えられています。
その後、次々に開村し、江戸時代の初期までには、すべての村が大江山に誕生したと言われています。
さらに明治22年(1889年)、大淵村・江口村・山岡村・山通村が成立。明治34年(1901年)にこの4村が合併して大江山村となりました。
村名は、4村名から一文字ずつとって「大江山」としたものです。
昭和32年(1957年)5月3日、大江山村は新潟市に編入合併しました。
そして、平成19年(2007年)4月1日から、新潟市江南区の地域となりました。

大江山の名前の由来